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 夏風にたゆたえ

 さみしげにヒグラシが鳴いている。
 換気のために開けた窓を、桔平はするすると閉じた。ぬるい風が名残とばかりに腕の下をくぐり抜け、淀んだ空気をかき混ぜていった。
 外界との境を閉じきると、ガラス越しの虫の音が鋭さを一枚剥ぎ落とされる。
 とたん迫る日暮れの気配。空を染めていく熟した橙色。
 ヒグラシは梅雨の時期から鳴き始める蝉だ。だというのに、夕暮れの色が秋のにおいを連れてくる。
 僅か十数分、エアコンを切っただけで滴る汗が、まだ夏なのだと主張している。
 あつい。下腹がじゅくじゅくと熱を蓄え始めていた。
「……来たか」
 桔平は深く、息を吐いた。
 西日が差し込む窓をカーテンで覆う。ひかりを孕んだ空を遮ると、照明の人工的な白さがぱっと部屋を照らした。
 布団を敷き、枕元にペットボトルを並べておく。帰り際にコンビニでおにぎりとサンドイッチを調達し、腹も満たした。残りは冷蔵庫に入れてある。帰宅してすぐシャワーも浴びた。
 さして広くない部屋はエアコンの吐き出す冷気で満たされつつある。
 だというのに、腹で燃える熱は、血に乗って体中を巡り始めていた。
 ヒート。オメガが三ヶ月に一度陥る、アルファを求めてやまない期間である。
「始まるまでに行くとか言いよったが」
 どかりと、せんべい布団の上に胡座をかいた。
 風の行くまま気の向くまま。桔平のアルファは年号をみっつよっつ遡ったような、現代社会にそぐわぬ自由さを纏っている。ふだんはあいつらしいと笑いもするが、こと奴の望みで今の自分がある以上、悪態をつく権利はあるだろう。
 オメガに変えられた当初は、ヒートの周期もまばらだった。つがいになった一週間後にヒートが来たかと思えば、次は三週間後、かと思えば二ヶ月空いて、半月で寝込む。落ち着くまでに一年以上かかった。
 生粋のオメガでさえ、ヒートの発現当初は周期がばらつくと聞く。さすがの千歳も責任を感じたのか、奴にしてはまめまめしい頻度で顔を出し、ヒートで朦朧とする桔平の世話をせっせと焼いた。
 ────アルファとしての義務と責任とはまた別に、付属する状況に味を占めていたことも間違いないと桔平は睨んでいる。
 自分とて男で、元アルファだ。実感はなくとも理解はあるし、また責めるつもりもなかった。
 ほぼ二年が経ち、きっちり三ヶ月周期でヒートが訪れるようになった。すると安心したのか、ヒートの直前以外の来訪はまた気まぐれになった。構わない。四六時中ベタベタする性質でもない。
 さりとて人肌が恋しいときやヒートのときは、予兆を嗅ぎつけたかのようにふらっと現れる。アルファとオメガになって変わったものもあれば、変わらないものもある。千歳の有り様は桔平を安心させた。
 今回ばかりは間に合わなかったようだが。今までができすぎていたのだ、とどこかおかしかった。熱が頭に回っているのかもしれない。だが卒のない、なさすぎる千歳など、らしくないにも程があるではないか。
 あいつがあいつであればいい。
 自分が、自分であるように。
 ふは、と桔平は笑い声を吐き出した。先ほど閉ざしたばかりの窓の向こうが恋しかった。きっといい風が吹いている。
 背筋がざわめき始めていた。
 衝動を抑え込む必要など、感じなかった。

 本体がいないなら、自分のにおいしかしない布団は無用の長物だ。
 手始めに、押し入れから千歳専用と化した客用の布団を引っ張り出した。
 ふわり、と。目に見えない芳香が立ち上る。煙がごとくくゆり、陽炎のように揺らぐもの。
 アルファはオメガのフェロモンを甘いにおいと称することが多い。対して、オメガからアルファのフェロモンへの形容は珍しい。基本的に誘引するのはオメガであるからだ。
 それだけではないのだろうと、今の桔平は思っている。
 青空の下を駆け抜けて、草木をそよがせ、雲を流し、時に雨を、夕暮れを、夜の静寂を連れてくる。自由な風のにおいだなどと────果たして誰に言うものか。
 敷き布団を畳に広げたところで、膝の力が抜けた。掛け布団を手元にたぐり寄せ、丸くなる。
 藺草のにおいがした。
 ────まだ、足りない。
 桔平はよろよろと起き上がった。
 周期的に千歳が訪れるようになってから、箪笥の一角、一番下の段は専用のスペースと化している。下着に寝間着、替えの服をしまうための。
 立ち上がれば数歩の距離を、歩くのはもう難しかった。這うように近づき、引き出しを開ける。
 フェロモンは通常の体臭と違って、普通の洗剤ではあまり落ちない。時間経過で薄くなるが、閉じられた場所なら長持ちする。
 だから洗うことに躊躇いはなかった。なにしろ暑い夏の盛り。一度でも着た服をそのまま箪笥に入れておけるはずもない。
 そして十日前に洗濯して、干して取り込んだところを、大きな手にすべてかっさらわれたのだったか。服の塊ごと腕に抱え込んで、俺のにおいば残していくけん、などと。千歳は子どものように笑っていた。
 ああくそ。茹だる頭で舌打ちする。
 一回り大きい服も下着もなにもかも引きずり出して、布団の上に積み上げる。
 空けておいた、中心のスペース。くずおれるようにもぐりこめば、陽だまりのような安堵に受け止められた。
 じくじくと痛むほどに体中を炙っていた熱が、においにくるまれてやわらかく緩む。
 目を閉じる。手探りで布をかき集め、掛け布団をかぶった。
 瞼の裏に空が見える。
 春の日差し。木漏れびのひかり。ぬくもりだけを届ける日差しを浴びながら、涼やかな風が通り抜けていくのを聞く。
 高く高く、澄んだ青空。
 どこまでも、飛んでいく────。

 ひたすらに穏やかな眠りの中に、扉が開いて閉まる音が落ちてくる。雫のようにぽとりと、水面を揺らす。やさしいだけのにおいが強くなる。
「上手に巣ば作ったな、桔平」
 嬉しい、と濡れたいろの声がした。

(22.07.21)


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